己を揃えていく
『器つれづれ』 白洲正子 著 世界文化社
ご愛読、ありがとうございます。KJWORKS・木の家のくらしプロデューサー、山口です。
今、KJWORKS阪神の新しい事務所へ、自分の持ち物を色々と移動しています。そんな中で、久しぶりにこの本を見つけたので、ご紹介しましょう。もう、入手して10年になると思われる本を。
最近のこの書評ブログに何度か登場した白洲信哉氏。その祖母であり師である、白洲正子の著書です。それも、骨董の器との関わりを写真と文章で描いた、まさに「白洲正子の世界」が広がる一冊。
表紙は瀬戸の「麦藁手(むぎわらで)」と呼ばれる、幾筋もの線による文様の向付(むこうづけ)です。江戸中期のものだそうですが、どうでしょう、このなんとも言えない味わい、その線の潔さは。
白洲正子が焼きものの世界に深く入り込むことになったのには、二人の人物が大きく関係しています。稀代の目利きと言われた自由人、青山二郎と、後に親戚として白洲信哉へと血をつなぐことになる、小林秀雄です。
どちらも非常に手厳しく、「教える」というのではなく、まさに突き放すように、自らの骨董との付き合いを正子に見せつけ、翻弄するように扱うことで、その眼を鍛えてくれたといいます。
そのような苛烈な骨董との付き合いを通じて養ってきた眼。痛い目にあってこそ身につくもの、というか、著者はまさに身体を張ってその目利きを育ててきたのだ、ということが本書を読むと、よくわかるのですね。
先日、私が「瀬戸本業窯」の水野さんから購入させていただいた「瀬戸馬の目皿」も、その文様が廃れる前の江戸後期のものが、著者のコレクションとして掲載されていました。
そのことを私はすっかり忘れていましたが、先日買ったばかりという自分には、その写真が眼に飛び込んでくるようでした。やはり器というものは、自分でもつ、買って手に入れる、ということが大事なのでしょうね。
その意味で、久しぶりに読んだ本書の氏の文章が、KJ阪神という新しい場所を得て、そこに器を揃えていこうとしている私には、非常に新鮮に映ったのです。
白洲正子が小林秀雄を評した、こんな文章があります。「骨董を買うということは、小林さんがある満ち足りた時間を確実に生きていることの証しだったので、美術をゆっくり鑑賞する暇なんてなかったのである」と。
これは、小林秀雄が「買った!」と叫んで手に入れた骨董を、帰りの電車に置き忘れることがよくあった、というエピソードと共に述べられた言葉です。何とも凄いというか、ちょっと怖くなるような話ですね。
器をもつこと、それで酒や食、花を楽しむこと。その楽しみ方の極北を見るような著者のコレクションには遠く及ばなくても、その愉悦は私にもわかるつもりです。
買った器は今のあなた自身。白洲正子は本書でそう言っているようです。新しい居場所で私が揃えていく器たちも、まさに今の私の自己表現なのだ、本書を読んでそう改めて腑に落ちました。
そのことを愉しみ、モノと対話しつつ、その表現の枠組みを広げていきたいですね。少しずつ、少しずつでも。