練達の珠

2017.7.31|カテゴリー「読書つれづれ」|投稿者 KJWORKS

 

『静かな木』   藤沢周平 著   新潮文庫

 

 

 

「本を広げたかたちは、鳥のかたち。」

ご愛読、ありがとうございます。暮らしのプロデューサー、山口です。

 

 

 

裏表紙にあった「藤沢周平最晩年の境地を伝える三篇」の文字と、表紙の大樹の絵を見て迷わず購入した一冊です。全120頁、活字も大きくて、この分量だとおそらく一日の往復通勤で読み終わるだろう、というのが私の事前予想でした。

 

 

 

ところがこれが、読み始めるとなかなか読み終わらない。というか、思わずすいすいと活字を追おうとする眼を自分で止めて、間を入れてしまう。そして読み終わるのが惜しくなって、何度も後戻りをして読み直してしまうんです。

 

 

 

結局、「岡安家の犬」、「静かな木」、「偉丈夫」という三つの短い物語を「読み終えた」と感じられたのは、予想の三倍ほどの時間のあとでした。これには自分でもちょっと驚きましたが、さほどに見た目よりも内容が濃いのでしょう。

 

 

 

と言って、難解な文章だというわけではありません。むしろ読みやすい、飄々とした文体。今まで読んできた藤沢作品の中でも最も軽やかだとすら感じるのですが、しかしその滑稽味さえ伝わってくる文章が、実に深い含蓄を備えている。

 

 

 

特に表題作「静かな木」は素晴らしい。平成6年に雑誌に掲載された本作、作者の亡くなる3年前、67歳の時の作品です。この大きな活字でも50頁ほどの短編なのに、6つの章に分かれています。各章は10頁もないという計算ですね。

 

 

 

五年前に隠居、二年後に還暦を迎える孫左衛門が主人公。彼は欅の大木を見て思います、「あのような最後を迎えられればいい」と。ところがそうはいかず、彼を巻き込む事件が起こり、それには過去の因縁も絡んでいるようで…。

 

 

 

立川談四楼による解説にも同じことが書いてありましたが、この物語は充分に長編になり得ると思いました。それだけの中身をぐっと凝縮し、かつ理解し難くもならず、こちらも主人公と共に喜怒哀楽を感じつつ読める、それが凄い。

 

 

 

読み終えて、「練達の技」とはまさしくこういうことを言うのだと思いました。ずっと海坂藩に生きる人間たちを描き続けてきた作家の「最晩年の境地」とは、こういうものかと。まさに大樹のような不動の境地、そのものではないか。

 

 

 

ちょっとした事件を導入部として、過去の権力争いと結果としての現在、かつてそれに関係した主人公の境遇と事件との関わりを描く、そのスケール感。それを軽やかさを残して凝縮した本作は、まさに珠(たま)の如き逸品だと感じます。

 

 

 

ちなみに前述の解説は、「海坂藩の地図」というタイトルで、この落語家も藤沢周平の作品にハマりつつあることを感じさせます。架空の藩である海坂藩ですが、コアなファンの頭のなかにはその明確な地図があるという、そんな話でした。

 

 

 

これぞ藤沢周平の作品内世界。そこに生きる人々を描いてきた作者が、最晩年に目を向けた登場人物を軽やかな筆致で紡ぐさまからは、まさに作者がその世界に佇んで人の生を見つめる、静かな大樹であることが伝わってくるようです。