意味と道具と動作

2015.8.9|カテゴリー「日々の思い」|投稿者 山口敏広

2015-07-27 13.55.52

〈カニ缶をいただいて、でもしばらく開けられず。そのことの意味が今、どうも気になるのです。〉

 

ご愛読、ありがとうございます。KJWORKS・木の家のくらしプロデューサー、山口です。

 

今日も、昨日に引き続き、古い記憶に関わる話を。でも、なんだかとても大切なことのように思いますので。

 

今日のお昼、事務所ごはんで、いただきもののカニ缶を使いました。ご来店くださった木想家の住まい手さんからいただいて、もう二週間。早く食べたかったのに、それが出来なかったのは、「缶切り」がここになかったからです。

 

家にはあるのですが、どうも持ってくるのを忘れがち。結局こちらでゲットして、開けて調理に使うことができましたが、でも、よく考えてみると、缶切りという道具を使ったこと自体、もう何年ぶりなんだろう?

 

いま、缶詰を開けるのに、特に道具は必要ないことが多いですね。私はよくイタリアンをつくるので、トマト缶を頻繁に使いますが、プルタブのようなものがついていて、道具なしで簡単に開けられます。

 

でも、私が子供の頃、缶詰を開けるのには缶切りがあたり前でした。缶詰と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、リリーの果実の缶詰。桃やパイナップルの、あの甘い蜜と一緒に入った缶詰です。お中元などの贈答品に多くありましたが、あれは今も同様のかたちであるのでしょうか。

 

同様に、ジュースやビールの缶詰はプルタブが普通です。私が子供の頃は、缶と別々に離れるプルタブで、それを飛ばして遊んだりしたものでしたが、でもそんな中で、バヤリースだったか、缶に専用の道具で穴を開けて中身を出したものもありましたね。

 

縁のところに一つだけ開けたのでは中身が出ないので、一つ、そして反対側にもう一つと開けて、空気を入れて中身をグラスに注いでいたなあ。缶切りでカニ缶を開けながら、そんな記憶が次々と蘇ってくるのです。

 

そう言えば最近、ワインなどもコルク栓ではなく、単に回して開ける蓋のものが多くなってきましたね。これって、どんどん便利に良くなっていること、なんだろうか?ふと、そういう疑問が浮かびます。

 

本来、瓶詰めや缶詰めというものの主旨は「長期保存」であろうかと思います。そして、その本来の主旨を全うできる形態はおそらく、完全密封となるこの缶切り方式なのでしょう。そして瓶の場合は、コルク栓なのではないでしょうか。

 

それが、「開けやすさ」という利便性の前に、その姿を変えざるを得なくなっている。そんな気がしたんです。手で引っ張ったり回したりして簡単に開く方式は、間違いなく強度と密閉性に劣るはずですから。

 

物流というものが発展して、そんなに長期保存に耐えうる方式を必要としなくなっている。そういう見方もできるでしょう。でも、「やりやすさ」の前に何か大切なものを失いつつあるように感じるのは、私だけでしょうか?

 

今の世の中、全てが「ファスト」化していく、そう感じます。でも、その中で「本来あるべき姿」や、永い時間をふまえたモノのつくられ方が見失われていくのは、哀しいことですね。

 

今日、久しぶりに缶切りでカニ缶をキコキコと開けながら、あ、昔このギザギザの蓋で手を切って血が出たなあ、なんてことを想い出しました。

 

本来あるべき意味とそのかたち、それに伴った動作、そしてその道具。たかが缶切りですが、「時間」という視点を失いつつある世界で、なんだかとてもリアルな意味をもった動作のように、私には感じられたのでした。