生家の風景
ご愛読、ありがとうございます。KJWORKS・木の家のくらしプロデューサー、山口です。
今日はお休みをいただいていました。運転免許の更新講習という、ちょっと厄介なものがありまして(笑)、自宅から自転車で、警察署のそばにある交通安全協会へいってきました。
その行き帰りには、すごく大きな団地の中を通ります。ここは、私が生まれた頃、昭和40年台初頭に入居が始まった団地群です。住棟の間には遊歩道があり、公園が点在していて、街の樹々にも歴史を感じますね。
でも、この団地群では今、徐々に建替えが始まっています。もちろん、多くの住民の方々がおられながらの建替えということで、時間をかけて順番に建替えと住み替えがおこなわれているようです。
私自身は、生まれた時は団地ではなく、長屋に住んでいました。平屋の本当に小さな家で、両親と毎日銭湯へ行きました。その長屋には同じ年の子どもたちが4人いて、その子たちとその兄弟たちと毎日遊んでいました。
今、もうその長屋はありません。でも、そこが私の生まれた家。そして私の同級生にも、この団地で子ども時代を過ごした人がたくさんいます。その人たちも、建替えが進めば、思い出の家がなくなるのですね。
今年は昭和で言うと90年。この広い団地には、ここで生まれた方々が本当にたくさんいるはず。なのに、まだ50年しか経っていないのに、「老朽化」のひとことで、生まれた家がなくなってしまう。
私は木の家をつくっていますが、家は一戸建てでないといけない、という考えはありませんし、マンションだからどう、という気持ちもありません。でも、どちらの場合でも、建てて半世紀やそこらで家がなくなってしまうことには、強い違和感を覚えます。
本来、家とは世代を超えて住み継ぐものだと思います。自分が死ぬ時、自分が生まれた家がまだある。そして自分の子供や孫が住んでいる。それは本来、ごく普通のことであるべきではないかと思うんです。
その家がどんなタイプの、どんな大きさの家であっても、自分の生家というものの思い出は、そう簡単に消えるものではない。その生家のある風景が、周りが少々変わってもあり続けていること。それは人に心の安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。
この団地の住民数などの実情についてはよく知りませんし、それに言及する権利もないのですが、でも、たくさんの人々の生まれた家の風景が失われようとしているということには、家づくりに関わる者として、やはり少し感傷的になってしまいますね。
一抹の寂しさを感じながら、陽が傾き始めた団地の風景の中で、「住まう」ということをぼんやり考えていた、そんな時間でした。