消費と矜持

2017.8.2|カテゴリー「日々の思い」|投稿者 KJWORKS

 

〈建築とはデザインされた箱なのか。21世紀の今、その見方が変わっていることを感じざるを得ません。〉

 

 

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

 

 

今日は木造ではない建築が写真でお目見えしました。これは、東京・代官山にある蔦屋書店の建物ですが、今日読んだ日経オンラインの記事にこの建物のことが載っていたので、冒頭の写真にしてみました。清潔感のある美しい建築ですね。

 

 

 

私の興味を惹いたその記事は、「商標登録」についてのものでした。通常の文字やマークに加えて、昨今では音や動画も商標として認められるようになり、そして建築そのものも「立体商標登録」されている、という内容だったんです。

 

 

 

少し引用します。「立体商標とは、特徴ある立体物を商標と認める制度で、日本では1997年に始まった。コカ・コーラのガラス瓶、ヤクルトの容器、不二家の『ペコちゃん・ポコちゃん』の人形などが代表例(後略)」であると。

 

 

 

そして、近年増えつつあるのが「立体商標としての建築」だとか。例えば、お台場にあるフジテレビ本社。あの球体がくっついた、良くも悪くもランドマーク的な建築ですが、あれも立体商標登録されているそうで、こういう理由でした。

 

 

 

東京五輪に向け外国人観光客が増える中、「(前略)当社ビルをかたどったキャラクター商品や土産物を無断で製造し、販売する業者も出てきかねない。そこで当社ビルを新たに立体商標登録し、権利保護を強めることになった」。

 

 

 

なるほど。まあ、あり得る話ですし、その権利保護の考え方も理解できます。しかし、最初に見た蔦屋書店の場合は、その理由が私にはちょっと共感できにくい気がしたのでした。その理由は「建物を模倣から守る」ためだという。

 

 

 

蔦屋の方いわく「(前略)本当は売り場を含めた店の雰囲気全体を模倣から守りたい」「(前略)苦心して生み出したコンセプトを海外などで簡単に真似される恐れが高まっている」と。そして既に韓国にはそんな建築が存在するそうです。

 

 

 

記事は、最後こんな感じで結ばれていました。リアル店舗での販売がネット販売に対抗するべく生み出したのが独自の建物、空間の工夫であり、そのオリジナリティを他者から守るための立体商標登録は今後さらに増えるかもしれない、と。

 

 

 

この記事を読んだ私の想いはこうです。オリジナル対フェイクという土俵に載った時点で、もはや建築も「消費される」存在に堕してしまったのだなあ、と。まるで表面に「デザイン」という紙を貼った箱、レベルの扱いではないか。

 

 

 

そもそも建築が真似されるされない、とはどういう意味でしょう?その敷地の風土と、その建築主の意向と、その設計者の想いとを全て内包してかたちを生じる建築であるならば、それが何かの模倣になるわけがない、と私は思うのです。

 

 

 

伝統的な日本の建築に眼をやれば、そこは一見同じようなかたちの建築ばかりです。でもそれを模倣だと言ってトラブルになるということがあるでしょうか。そうではなくて「様式」が同じであれば、建築は似た見た目になる。

 

 

 

「様式」とは、その国にあるべき建築の「かたち」です。形ではなくて、「あり方」というような意味。雨が多い国なら屋根が大きく、乾燥した国なら石の壁を分厚く、といったようなことで、それは風土を色濃く反映しています。

 

 

 

そういう古来からの事情を忘れて「模倣」という見方が起こるのは、建築もプロダクトデザインの延長線上のモノ、単なるデザインされたカタチ、と見做されて、そこでしか建築の良し悪しは判断されない、という考えの表れではないのか。

 

 

 

もちろん「模倣する者」に非はある。表面を真似て目立つという考え方自体が非常に浅はかで軽薄なものであることは論を待ちませんが、建築を見る目が今そうなったという根本的な問題が、そうした間違った行為を生む土壌だとも思えて。

 

 

 

建築なんて、本当に根源的な意味ではみな同じです。しかし、そこに諸条件が絡みあった時、空間には無限の可能性がある。そこにつくり手が矜持をもって臨んだかが大切であり、部分にフェイクだと難癖をつけても、さして意味はない。

 

 

 

建築が立体商標登録される、ということに反論する気はありません。しかし、それが模倣かどうかということで争わなければならない、その社会のあり方そのものに何やら寂しさを感じざるを得ないというのが、私の正直な感想です。