炎に託す

2017.8.20|カテゴリー「日々の思い」|投稿者 KJWORKS

 

〈画像は転載フリーのもの、出典はこちらからです。〉

 

 

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

 

 

今日は、ふと画面で見たニュースで気になるものがあり、そこからこのお盆休みでの自分の想い出が蘇ってきましたので、そのことを書きます。それが冒頭の写真のもの(画像はお借りしています)、盂蘭盆会の迎え火(送り火)です。

 

 

 

私が気になったニュースというのは、山梨県笛吹市で16日におこなわれた送り盆の行事「甲斐いちのみや大文字焼き」で、火の代わりに「大」の形に並べた発光ダイオード(LED)が点灯された、というものでした。え、LED!?

 

 

 

点火するための足場の風雨による危険性を考慮し、今年からLEDになったのだそうです。以下は同市観光商工課のコメントで、「送り火のLED化は全国でも珍しいのでは」とのこと。このニュース、皆さんはどうお感じになりますか。

 

 

 

私はまず大いに驚き、そのあと少し寂しい気持ちになりましたね。そもそも観光商工課の人がコメントするこの行事は、観光客目当てのものなんだ、と。そして「送り火」本来の意味合いなど、そこにはもう存在していないのかな、と。

 

 

 

でも、記事はこう続きます「従来、『大』の文字については、8月13日から15日まで白熱電球で点灯させ、16日のみ松明(たいまつ)を用いて火で明かりをつけていた」と。ああ、今年一気に変わったわけではない。でも、それにしても。

 

 

 

迎え火とは、お盆に戻ってこられるご先祖の霊に対して、戻るべき場所を見失わないよう、迷わないように焚くもの。送り火は逆に、お盆を一緒に過ごしたご先祖をあの世へと送り出す意味で焚くもの。私にも知識としてはあったんです。

 

 

 

しかし、今年は義父の初盆であり、奥さんの実家には今までなかった仏壇がありました。そして初めて盆提灯と迎え火を自分ごととして見ることになったのですね。私の実家も父が次男坊で仏壇はないし、自分の家でそういう経験がなくて。

 

 

 

火をともし、写真と同様に焚かれた炎。それを皆で囲んで見ていると、ここを目指してお義父さんが帰ってくる、ということが実感できて、それが炎であることがとても重要であるように思われたんです。これは火でなくてはならぬ、と。

 

 

 

それは、人類の太古からの記憶が私の中にも刻まれているからかもしれませんが、人類と動物を分け、人の暮らしに安寧をもたらした「火」というものになら、人は自分の想いを託すことができる。そういうことを強く感じました。

 

 

 

お盆の迎え火・送り火に限らず、「精霊流し」「灯籠流し」などという鎮魂の行事などでも同じだと思いますが、人はこの炎に、鎮魂の想い、故人への想いを託しているように思います。ではそれは、LEDにでも同様に可能でしょうか。

 

 

 

私は笛吹市観光商工課の方々に何の恨みもありませんし、LED化そのものに反対する気もありません。しかし、その変化で地域の皆さんから「炎に想いを託す」という心の働きがさらに失われてしまったとしたら、とても寂しいですね。

 

 

 

人は炎に想いを託し、また炎の中にかつてあった何かを見る、そんな気がします。迎え火の中に私が義父との想い出を見たように。そういう心だけは、時代が変わっても決して忘れるべきものではない、そう強く思うものです。