秘すれば花

2017.9.9|カテゴリー「日々の思い」|投稿者 KJWORKS

 

〈言葉の使われ方、意味の変化には人の心根が投影されているのではないでしょうか。〉

 

 

 

ご愛読、ありがとうございます。木の家づくり・暮らしのプロデューサー、山口です。

 

 

 

今日は言葉のお話を。私としてはちょっと真剣に考える時間があったため書こうとしておりますが、おそらく半ば「親父の苦言」めいてくる予感がしますので、申し訳ありませんがご興味ない方はスルーをお願いできればと思います。

 

 

 

異国の言葉には全く疎い私が、先日電車である英語の表現を初めて耳にしました。それは「oh  my  gosh!」という言い方。Godではなくgosh、でもその言葉を発した方のニュアンスは、まさに「oh  my  God!」と同じ感じだったんです。

 

 

 

それが気になって早速調べ、「oh  my  gosh」は「oh  my  God」の婉曲表現であることを知りました。「God」という言葉を口にしないため「gosh」に振り代えるのだと。そしてそれは「God」と言うことが神への冒涜になるからだ、と。

 

 

 

それを聞いて、ユダヤ教の神「YHVH」を思い出しました。これは一般的には「ヤハウェ」と読まれるそうですが、しかしその神の御名を口にすることは教徒には固く禁じられているそうで、これも上と同じ理由だというのです。

 

 

 

なので敬虔なクリスチャンの方ほど「oh  my  God」とは言わない。聖書には「むやみに神の名を使ってはいけない、たとえ、何かわるいことがおこっても神様のせいにしてはいけない。罰当たりなことである」との記述があるのだとか。

 

 

 

今日のタイトル「秘すれば花」は世阿弥の言葉で、能について語ったものですが、上で私が感じたことにも通じる言葉だと思って使いました。このように、尊いもの、崇高なものについては、人がむやみに口にするべきではない、と。

 

 

 

軽く言葉にしない方が、心の中の想いはより強まり、澄んだものになる。その心とは一言で言えば「畏敬」でしょう。尊く崇高なものに対する畏れと敬いの心は、どんな宗教観をもつ人間にあっても、等しく大切なものだと思うのです。

 

 

 

そこで翻って我が国の言葉の惨状はどうでしょう。ここ何年か多用されている言葉は、まさに「神」ですよね。「神対応」という表現など頻繁に目にします。私はそのたび寂しい気持ちになりますが、ここに上のような想いは微塵もない。

 

 

 

実は以前もここに同様の苦言を書いたことがあります。その時は「カリスマ」とか「超絶技巧」という言葉を採り上げ、さして凄くもないものに「凄いものを表す言葉」をあてることで、その言葉の意味が浪費されている、と書きました。

 

 

 

しかしその後その傾向はさらに進み、ついには「神」を多用するようになった。これは一神教と多神教の違いで済む話ではありません。独りだろうがたくさん居ようが、神様とは畏敬の念をもって接し、崇め奉るべきものであろうからです。

 

 

 

言葉の意味とは、常に時代の変化に応じて移りゆくもの。それは避けることが出来ないし、それが言葉の本質とも言えます。ただその移り変わりは、その時代の人の心根を素直に反映している。そのことは疑いようのない事実でしょう。

 

 

 

私自身ほぼ無宗教に近く、こんなことを偉そうに言える人間ではありません。しかし今回「oh  my  gosh」という他言語での奥床しい表現を知って心が和む気がしたんです。でも、それもいつか消えゆく定めの言葉なのか、という気もする。

 

 

 

神とは即ち「人智を超えた崇高な畏敬の対象」なるものを象徴する存在です。バベルの塔を粉々にし、人の言葉を相互に理解不能にした「神の雷槌」を、その言葉の用法で招くようなことはやめたほうがいい。皆さん、そう思いませんか。