福井の気づきブログ

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築地市場と築地本願寺

2005-12-15

カテゴリー「KJWORKS福井のこと・学び事

投稿者 福井綱吉

今朝10時半頃、問題?の宿泊先を後にして、メトロ築地駅に向かう際に見かけた築地市場の活況ぶりは凄いものでした。道路の手前から見たものですから良くわかりませんが、商人の賑わいというよりも一般の人たちの買出しに思えます。

この市場正面を150メートルぐらい入った路地右側で昨晩は食事をしたのですが、この写真からは、とてもそんな雰囲気は感じられません。残念ながら、確かに美味しい食材もありましたが、料理の工夫がイマイチで、悪口ではありませんが、東京人は食に貧粗です。あれでも人は集まるのですから!まあ、そういう意味では、東京のお店は不味くてもお金を払ってくれる人ばかりで、平和で幸せですね。

そんな事を思いながら、昨晩、通りかかった不思議な形のお寺である、築地本願寺の横に着きました。私にとって、一度も見たことも聞いたことも無かったお寺?しかも、「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と知って、びっくりです。あまりにも仏教の本堂から考えれば、むしろ、イスラム教の寺院かと勘違いしてしまい、なんと不謹慎なお寺をつくったものだと少しあきれてしまいました。

ところが、お寺の説明文を読むと、外観はインド様式の石造り寺院で、本堂内は焼失前の桃山様式を取り入れた荘厳な建物とあり、仏教伝来のインド様式であれば何となく?納得に至ります。

まあ、ホテル内の劣悪な湿気による不快さを忘れれば、今朝の景色は思い出に残る出来事でした。ところで、ご存じない方の為に、築地本願寺について下記の通り説明しておきます。

関東の人々に「築地本願寺さん」と親しまれているこのお寺は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言います。その発祥は、元和三(一六一七)年、西本願寺の別院として、第十二代宗主(ご門主)准如上人によって建立されました。
当時、浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦三(一六五七)年、歴史的に有名な振袖火事で焼失してしまいました。しかし大火後、幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されず、その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。
そこで佃島の門徒(大阪佃より移住した門徒)が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝七(一六七九)年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになりました。尚、このときの本堂は、正面 が西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、市場のあたりが門前町となっていました。
その後、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和六(一九三一)年に起工、三年後の昭和九(一九三四)年に落成され現在に至っています。
この建物は、インド洋式の石造りとなっていますが、本堂内は従来通りの桃山様式を取り入れた荘厳となっています

築地駅に向かう道路から向かい側の築地市場を眺めると、なんと人ゴミなことでしょう。

築地本願寺は、イスラム寺院?と勘違いしたのですが、やっぱり、ご覧のように、お寺に拝みに行くおばちゃんの姿とは似合いませんよね。