福井の気づきブログ

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今朝の散策は馬見丘陵公園内と竹取公園

2007-09-17

カテゴリー「KJWORKS福井のこと・学び事

投稿者 福井綱吉

今朝は9時過ぎからと、かなり遅めの朝歩きとなって、夏日の今日は流石に汗一杯です。いつもより北に進路を伸ばして馬見丘陵公園北エリアにまで出向き、その後、中央エリアに戻り、帆立貝式古墳の乙女山古墳の墳墓頂上に藪の中を歩いて到達(やぶ蚊に噛まれ、大変!)その後、ナガレ山古墳や佐味田狐塚古墳などの古墳めぐりをしながら、竹取公園に到着。

竹取公園入口には『竹取物語』の舞台は「広陵町」と記された看板がありました。全国にその舞台は数多くあるようですが、この文面を読む限り、本当の舞台は「広陵町」のようです。では、その全文を記載してみます。

『竹取物語』の舞台は「広陵町」
「今は昔、竹取翁といふものありけり・・・名をば讃岐造(さぬきのみやつこ)となむひける」これは『竹取物語』の始めに書かれた文章です。『竹取物語』は「物語」ですから「いつ・どこで・だれが・・・」がはっきり書かれています。
平安時代の始めに書かれたとされる『竹取物語』では、かぐや姫に5人の貴公子が求婚します。この5人は『日本書紀』の「壬申の乱」(672年)に功労者として同じ名前が書かれています。これらのことから『竹取物語』に書かれた時代は飛鳥・藤原時代(天武・持統朝)であり、そうすると当時都のあったところは飛鳥京か藤原京で、場所ははっきり「大和国(やまとのくに)」となります。
では、竹取翁とかぐや姫が住んでいたところは、大和国のどこか調べてみますと、竹取翁の名前が「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれています。
広陵町には延喜式(967年)に記載された讃岐神社という古社があり、その位置として大和国広瀬郡散吉郷(やまとのくにひろせごおりさぬきごう)と書かれています。
古代ではその土地を統治していた人の名と、地名は同じですから、その土地にある讃岐神社は、讃岐一族の長を祀った神社であることが考えられます。
「おとぎばなし」や「伝承」に現れた「かぐや姫」のお話は、天をつく青竹の群生と、その上に輝く満月のあるところとして、全国に多数あります。
しかし、『竹取物語』の舞台のモデルになったところは、奈良県北葛城郡広陵町(大和国広瀬郡散吉郷)であると、岩波・新潮社等の「竹取物語解説書及び学術書」には記されています。
[別記]
1.『古事拾遺』(807年)に「大和に住んでいた一族が今は分れて讃岐に住んでいて、毎年大和朝廷に矛竿を収めていた」と大和から讃岐(四国)への移住説が書かれています。
2.古代に讃岐なる名前の豪族がいたかと調べてみますと『古事記』に、開化天皇の孫に讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)と、ひ孫で垂仁天皇の妃として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)の名前が記されています。

馬見丘陵公園北エリア

乙女山古墳墳墓頂上です

睡蓮の池

竹取公園内の太鼓橋

竹取公園内には、古墳時代の住居や高床式倉庫の復元家屋もあります

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